■一般教養としての「文法・論理・修辞学」

1 基礎的な技として不可欠

ヨーロッパの知識人が、どんな勉強をしてきたのか、『やりなおし教養講座』に村上陽一郎が書いています。[知識人は、ラテン語を使わなければ学問の世界には入れないので、何よりもまずラテン語を学ぶわけです。これはいわば知識人のパスポート]とのこと。

ヨーロッパの共通語としてラテン語が機能していました。したがってラテン語を学ぶことが、[「教養」の最も基礎的なもの]となり[ヨーロッパにおいては長く(場合によっては今日まで)続くことになります]。今でもこの伝統の影響があるということです。

[ラテン語を学んだときにどうしてもやっておかなければならない基礎的な技]として、[文法・論理・修辞学という三科目が、大学に入った人間がとにかく文句を言わずに学ばなければならない教養ということになるわけです]。これが知識人の前提でした。

 

2 日本の問題点

ヨーロッパの知識人の基礎的な教養のあり方が、現代にそのまま通用するとは言えないでしょう。しかし、この影響はとうてい消えそうにありません。日本では、文章を読んで、もっと論理的にとか、論理的に書くには…という言い方が現在もなされています。

日本における学問の近代化に、ヨーロッパの知識人の影響が圧倒的だったのは、いうまでもありません。日本人の学者も、このことを意識していたはずです。しかし現代では、もはや学者の人も含めて、「文法・論理・修辞学という三科目」など学ばないでしょう。

日本では、日本語の文法も確立していませんし、論理学が日本人にしっくりくるほどに消化しきれていません。修辞学とは何のことかと聞かれれば、ビジネス人や学生のほとんどは、なんでしたっけ…ということになります。ここに問題があるかもしれません。

 

3 基礎になる「論理学、修辞学、文法」

渡部昇一は『レトリックの時代』という本を書いています。[人対人の関係を知的に構築する方法の一つとして修辞学(レトリック)を生んだ]と記しています。「修辞学=レトリック」は、学者の人だけのものではないという前提で書いたものです。

ヨーロッパでも、ローマ時代に修辞学が発達し、中世に入るとやや後退したものの、[中世の三自由学科(Trivium=三学)である、論理学、修辞学、文法の一つに入っており、学問的価値を疑われていなかった]。そして中世までに修辞学は整備されました。

修辞学は近世に退潮しましたが、現代こそ修辞学が大切だというのが渡部の主張です。また[日本で修辞学の大家といえば、私は、まず清水幾太郎氏を上げる]と言い、[自分の言いたいことをどのように言うべきかの実践が、見事に示されている]と記しています。

渡部昇一には『秘術としての文法』という著作もありますし、清水幾太郎には『論文の書き方』がありました。今後も残る本になるでしょう。これら一般向けの本において、「論理学、修辞学、文法」が意識されています。もう一度、学ぶべきだと思うのです。

       

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